漢字の起源は、古代中国の「甲骨文字」にまでさかのぼります。これは亀の甲羅や獣の骨に刻まれた記録で、最古の漢字とされています。その後、青銅器に刻まれた「金文(きんぶん)」、周の時代に体系化された「大篆(だいてん)」、さらに秦の始皇帝によって定められた「小篆(しょうてん)」へと発展し、現在の漢字へとつながっていきました。
一方、印章も古くから文字とともに歩んできました。印は身分や権限を証明する重要な道具として用いられ、古代の王朝や役人の間で制度化されました。時代を経て、実用だけでなく芸術としても発展し、今日では篆刻(てんこく)という伝統文化としても親しまれています。
紀元前2700年頃
黄帝の史官・蒼頡が「鳥跡文字」を考案(伝説)
紀元前1300年頃
商代で甲骨文字が使われる
紀元前11世紀頃
周の青銅器に金文(きんぶん)が刻まれる
約紀元前8世紀
石碑に刻まれた「石鼓文」が現れ、碑文文化の先駆けに。文字の様式変化が始まる。
紀元前8世紀頃
宣王が太史籀に命じ「大篆」を編纂させる
紀元前221年(秦)
始皇帝が文字を「小篆」に統一、印章制度も整う
紀元前206~220年(漢)
官印・私印が広く使われるようになる
57年(弥生時代)
倭の奴国王が後漢の光武帝から「金印」を授かる(『漢委奴国王』印)
701年(大宝元年)
大宝律令により官印制度が確立される(律令国家による公文書制度)
平安時代(794〜)
天皇の「御璽(ぎょじ)」や太政官の「太政官印」など公印の制度が整備される
鎌倉時代(1185〜)
武家政権でも印章が使用されるようになり、文書の信頼性を高める手段となる
室町時代(1336〜)
武将や大名が花押(かおう)とともに印章を使うことが一般化する
江戸時代(1603〜)
庶民の間にも印章文化が浸透。町人や商人も実印や認印を使うようになる
1868年(明治元年)
明治政府が「太政官布告」にて実名と印章による文書の公式性を定める
1873年(明治6年)
「印章条例」制定。戸籍や登記に印章が不可欠となる
昭和以降~現代
法的・社会的に広く印章が用いられるようになる。印鑑登録制度も導入される
山梨県の印章業は、地元に水晶が産出されるようになった文久年間(1861~63)に水晶印の篆刻から始まったといわれ、今では印章の生産量が全国一を誇る産地となっています。
山梨県(甲斐の国)では早くより、甲府の奥地、御獄金桜神社を中心とした地域で水晶の玉つくり彫刻等が盛んでした。
明治維新になり、政府は我が国の近代化を進める方策として積極的に殖産興業に力を入れ、民間に鉱山の開発を許可し各種の鉱物試掘と売買を奨励しました。山梨県では、水晶鉱山の採掘が自由になり、ときの県知事藤村県令は旧甲府城内に県立勧業試験場を設け、その中に水晶加工場を置き、御獄の名工達を講師として招き水晶加工の講習会を開き数多くの技術者を養成しました。
甲府市街やその周辺に水晶加工業が起き、水晶印の篆刻も盛んになってきました。
一方山梨県は、江戸時代から全国に名を馳せ印聖と呼ばれた高芙蓉先生をはじめ、中井敬所、中村蘭台、芦野楠山、波木井昇斉、高田緑、山本碩堂など数多くの著名な篆刻家を輩出していました。
六郷町にも諸先生方の教えを受けて、渡辺素堂先生を筆頭に、依田東渕、樋川硯斉、内藤鉄丸、宮沢耕雲、河西鴨江、河西笛州など優れた篆刻家が育ち、その技術を後世に伝えました。
六郷町は江戸時代には旧岩間村を中心に、農家が足袋(たび)の製造を副業とし「足袋の岩間」といわれる程の盛業を示し、行商の手によって市場をのばしていました。
しかし明治に入ってから機械化による大量生産の製品が多く、また安く出回るようになると、地方の小規模企業は圧迫され、同時に足袋製造に欠かせないこの地方特産の藍の栽培が減少して、次第に「岩間足袋」は姿を消して行きました。
もともと足袋産業で営業力を付けていた人達は、それを生かし、印章の注文を営業先で取るようになり、六郷町の印章業が地場産業として定着する基礎となりました。
通信販売も盛んになり、日本全国にカタログを配布し注文を集め、「はんこの町」としての名を上げるようになりました。
大正時代末期には足袋産業に変わって、完全に印章業産地として、押すに押されぬ地盤を築きました。 第2次大戦後は、水晶印は少なくなりましたが、象牙、オランダ水牛、黒水牛、つげ、ラクト、などの印材が主流となり現在に至っています。